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東京地方裁判所八王子支部 昭和54年(わ)1296号 判決

主文

被告人を無期懲役に処する。

押収してある切出しナイフ一丁(〈押収番号略〉)、軍手一双(〈押収番号略〉)、モデルガン一丁(〈押収番号略〉)、玩具手錠六個(〈押収番号略〉)、ガムテープ一巻(〈押収番号略〉)、帽子入れボール箱一個(〈押収番号略〉)、千枚通し一本(〈押収番号略〉)、白手袋片方(〈押収番号略〉)、茶色手袋一双(〈押収番号略〉)及び手袋一双(〈押収番号略〉)を没収する。

押収してある預金通帳一通(〈押収番号略〉)を被害者Bの相続人に還付する。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、昭和三九年一一月二日、社会福祉法人桜ヶ丘社会事業協会桜ヶ丘保養院(以下「桜ヶ丘保養院」という。)において、精神外科手術の一種である前部帯回切除術(チングレクトミーとも呼ばれる。以下「チングレクトミー」という。)を施されたのち同院を退院したものであるが、

第一  昭和五三年ころに至り、右手術の結果、美的情動、想像力、直観力が失われ、もはや著述業で生活することもできず、やり直すだけの根気も生じない状態になり、結局生活の基盤を失ったとして絶望したあげく、自殺を考えるとともに、チングレクトミーを施されたことに思いをめぐらし、かっての自分は英語の修得などに努力し、無学歴でも通訳になるほどの知能があり、その後粗暴犯などの前科を重ねたとはいえ、著述業で生活できていたものであって、真剣に診断をすればチングレクトミーの施行が不要と分かったはずなのに、桜ヶ丘保養院に措置入院させられ、主治医となったA医師(以下「A医師」という。)が慎重な判断をせず、チングレクトミーを施行したため、人格崩壊をきたし、遂に人生を終えることになったものであり、自殺するのならば、主治医のA医師の人生も終らせなければならないなどと考えて、ここにA医師の殺害を決意し、昭和五四年九月二六日午後五時過ぎころ、A医師殺害を実行するため、黒縁眼鏡をかけ、三越デパートのマークを刺繍した野球帽を被り、白色サファリルック上下を着て、三越デパートの配送員を装った風体で、切出しナイフ一丁(刃体の長さ7.95センチメートルのもの、〈押収番号略〉)、千枚通し一本(〈押収番号略〉)をズボン右後ろポケットに隠し持ち、手錠六個(玩具、〈押収番号略〉)、ガムテープ一巻(〈押収番号略〉)、一部を改造したモデルガン一丁(〈押収番号略〉)、軍手一双(〈押収番号略〉)、手袋(〈押収番号略〉)、しゅろ繩三束などを入れ、三越デパートの包装紙で包んだ円型帽子入れボール箱(〈押収番号略〉)を持ち、東京都小平市〈番地略〉A医師方へ赴き、もって、殺人の予備をなし、

第二  前同時刻ころ、前記A医師方玄関先において、デパートの配送員を装って「Aさん。」と声をかけ、これに応じて同医師の義母C(当時七〇歳、以下「C」という。)が玄関の戸を開けるや、玄関内に立ち入って戸を閉め、やにわに所携の前記切出しナイフをCに突きつけ「騒ぐな。嫁はどこにいる。」と脅して同家屋内に押し入り、もって、故なく人の住居に侵入した上、Cを同家食堂に押し込んで、その両手両足に所携の手錠をかけ、中六畳間(居間)に這わせて移し、近くの家具に所携のしゅろ繩でCの右足首を繋ぎ留め座らせるなどして同医師の帰宅を待ち伏せ、同日午後六時三〇分過ぎころ、同医師の妻B(当時四四歳、以下「B」という。)が帰宅するや、不審を抱かれないようCに命じて「ミーちゃんお帰り。」と言わせ、Bが玄関から廊下に歩いてくると、やにわにその前に飛び出して前記切出しナイフを振りかざし、「騒ぐな。」と脅して中六畳間に連れ込み、Bに命じて自らの両手両足に手錠をかけさせ、Bを引き立てて奥の八畳間に連れ込んで横臥させ、B及び隣室(前記中六畳間)のCの目と口にそれぞれ所携のガムテープを貼って塞いだ上、さらに同医師の帰宅を待ち伏せ、B、Cの両名に対し、自分はA医師に精神外科手術をされた甲であり、その手術により一生を駄目にされたので、同医師を殺害して自殺するつもりでいるが、両名が言うとおりにするのであれば危害を加えない旨説明したり、屋内を物色し、八畳間内の小物入れの抽斗の中に、A名入りの給料袋に入った現金、玄関近くの六畳間(Cの居室)の箪笥の中に一万円札等を見つけるなどしていたところ、同日午後八時三〇分ころになって、Bが、「Aは、今夜はもう帰ってこないでしょう。」などと言い出したことから、同医師殺害の実行を後日に延期せざるを得ないと考えるに到ったが、B、Cには自分の名前やA医師殺害計画を明かしていたため、両名を生かしておけば自分が逮捕されて同医師殺害の機会を失ってしまうと考え、同女らを殺害して既に物色発見してある右現金は後日A医師殺害を実行するまでの逃走・生活資金として奪おうと決意し、同日午後八時三五分ころ、八畳間のBのそばへ行って、気取られないよう会話をしている風を装いつつ、前記切出しナイフでBの右頸部を二回にわたり切り裂いた後、隣室中六畳間のCのそばに忍び寄って、同様に切出しナイフでCの右頸部を一回切り裂いた上、さらにその左頸部をえぐるように二回切り裂き、再度、Bのそばに戻って、同女の手足が緩慢に動いているのを認めるや、前記切出しナイフでBの心臓めがけて三回突き刺し、さらにCに対しても同様に切出しナイフでその胸部を突き刺すなどして両名にとどめを刺し、よって、そのころ、それぞれその場でB、Cを総頸動脈切断により、それぞれ失血死させて殺害した上、物色中に見つけたAほか二名所有の現金合計約四五万円及びB名義の預金通帳一冊等を強取し、

第三  業務その他正当な理由がないのに、同日午後一〇時二〇分ころ、東京都豊島区西池袋一丁目一番二五号警視庁池袋警察署池袋駅西口派出所内において、前記切出しナイフ一丁を携帯したものである。

(証拠の標目)〈省略〉

(争点に関する判断)

第一  強盗殺人罪の成否について

弁護人は、判示第二の事実につき、「被告人においては、殺害と金品奪取とは全く別個の判断に基づく行為であるばかりか、被告人が被害者二名に対し財物奪取の手段としての暴行・脅迫を行なったともいえないので、強盗殺人罪は成立せず、殺人罪と窃盗罪が成立するにすぎない。」旨主張し、被告人も、第二六回公判(平成四年一一月二日)においては、弁護人の質問に対して、被害者を殺害したあとで金を盗ることを考えたと供述している。

そこで、その余の被告人の供述状況をみるに、捜査当初、被告人は、財物奪取の意思を生じた時期につき明確な供述をしていなかったものの、昭和五四年九月二九日付け検察官に対する供述調書(〈証拠番号略〉)においては、「A医師の妻と母親の両手足に手錠をかけ、A医師の帰宅を待ったが、なかなか戻らず、このまま帰れば私は捕まってしまうと考えた。それで、A医師殺害は別の機会にせざるをえないとしても、自分の生活全部を犠牲にして殺害を考えてきたので、生活費がなく、殺害を後に延ばせば自分の生活費が必要であると考え、Aは医師で多額の給料を得ており、家には一〇〇万円あるいはそれ以上の金があるだろうと思って、金を捜し始めた。」旨供述し、同年一〇月三日付け司法警察員に対する供述調書(〈証拠番号略〉)においては、「初めはA医師だけを殺害し、その脇で自殺する予定であり、現金を奪う計画はなかった。しかしA医師の妻と母親の二人を完全に拘束した後、室内を物色中、もしもA医師殺害の目的が達成されず自殺できなかった場合は、海外逃亡も可能だと一瞬考えた。この時は、A医師殺害が遂げられる以上金を入手する意味はなかったから、現金を自分のポケットに入れようという明確な意思は未だ起きなかった。物色を終えた後、午後八時三〇分ころ、Aは今夜はもう帰ってこないでしょうと妻が断言したので、その話を信じ、A医師が帰って来なければここを逃げなければならないし、二人の証人をこのまま残しておいたらすぐに逮捕されてしまうので、殺す以外に方法がなく、二人を殺して逃げ、その後の生活資金は、物色して発見していた金を充てようと考えた。」旨供述しており、その後の同月五日付け上申書(〈証拠番号略〉)及び同月一二日付け司法警察員に対する供述調書(〈証拠番号略〉)でも、室内を物色して現金を発見した時、万一A医師が帰宅しなかった場合は、逃走するため一〇〇万円単位の金が必要だとの思いが一瞬脳裡をよぎった旨を繰り返し述べている。さらに、同月一四日付け検察官に対する供述調書(〈証拠番号略〉)においては、「一通り物色が終わった午後八時半ころ、妻が、Aは今夜はもう帰ってこないでしょう、と言ったのを本当だと思った。そうなると今晩計画通りA医師を殺害することはできず、殺害を延期して別の日を狙うには、Aの家から逃げなくてはならないが、A医師が帰ってくれば当然二人から私の計画を聞き、警察に通報して、指名手配され逮捕されてしまうと思い、逮捕を逃れ、しかもA医師殺害の計画を実現するには、私のことを知った二人を殺害するしかないと決意した。殺害し、海外への逃亡をもしなければならない。A医師殺害に向けて金を注ぎ込んできて、逃亡資金も生活費もなく、二人をまず殺し、その上で先程物色して見つけた金等を取って逃げ、生活費や逃亡資金に充てようと決意した。殺してから初めて金を取るつもりになったのではない。金を取ってから殺さなかったのは、まず私という犯人を知っている人間を殺すことが先決だと考えたためである。」旨述べ、具体的かつ詳細に、被害者二名の殺害実行前の時点において、すでに殺害した上で財物を奪取する意思を生じていたことを供述している。

また、被告人の公判段階における供述をみるに、第一回公判(昭和五四年一二月一七日)における罪状認否では、強盗殺人を含む各公訴事実について、いずれも間違いないと陳述し、被告人自身が綴った「チングレクトミーの対価」と題する書面(一九八二(昭和五七)年八月二五日付け、第五回公判で陳述)の中でも、BからA医師が今夜帰宅しない旨告げられた後の自己の心理について、「私は二人を殺す以外方法はないと知った。二人は私の正体を充分以上知ったのである。(中略)Aは今夜戻らない。奴の殺害は後日に譲らねばならない。今日捨ててきた生活を再開せねばならない。いやもう自宅アパートに帰れない。足がつく危険がある。金はない。手持ちの一万三千余円が全財産だ。チングレクトミー後遺症で働けず、借金は山程ある。借金する宛はもうない。だが幸い、金は見つけてある。あの金を奪えばよい。百万円以上あるに違いない。A殺害迄のホテル生活費には充分。いや、奴にチングレクトミー後遺症の特殊性をマスコミ向けに大書させてから殺す状況作り迄の生活には百万円は足りるだろうか…。」などと殺害前に財物奪取の意思があったことを明らかに記し、さらに、第二三回公判(平成四年八月五日)においても、「金を盗もうと思ったのがどの時点かについても、捜査官にすべて供述していると思う。」旨供述し、第二五回公判(同年一〇月七日)においても、被告人の検察官に対する昭和五四年一〇月一四日付け供述調書(〈証拠番号略〉)の要旨を引用しながらの検察官の質問に答えて、海外逃亡を考えたとの部分は真実ではないとしながらも、「午後八時三〇分ころ、A医師が帰って来ないとBに言われた後で、『BとCをまず殺し、その上でさっき見つけた金などをとって逃げ、これを生活費や逃亡資金に充てようと決意した。』『殺してから初めて金を取るつもりになったのではありません。金を取ってから殺さなかったのは、まず、私という犯人を知っている人間を殺すことが先決だと考えたためです。』との部分はいずれもそのとおり事実である。」旨供述し、第二八回公判(同年一二月二一日)においても、裁判所からの質問に対して、被告人は、被害者二名を殺すことと、金を取って生きのびA医師殺害計画をもう一度実行に移すことは不即不離で、それ以外考えられない関係にあったことを認める供述をしている。

このようにみてくると、被告人は、弁護人の質問に対する前記供述以外は、捜査段階からほぼ一貫して、殺害前に財物奪取の意思を生じていたと供述しているのである。このような供述経過に照らし、また捜査段階での供述調書や被告人自身の手記等の供述内容が右のとおり迫真性を有する点からしても、被告人は、財物奪取の意思を生じたのちに被害者二名を殺害したものと認められるのである。

そして、強盗殺人罪において、殺害は財物奪取の手段たる暴行脅迫の最強度のものであるところ、本件において、犯行当時の客観的な状況をみると、A医師方の隣家にはA医師の甥とその家族が居住しており、被害者二名は眼と口にガムテープを貼られ、両手両足に手錠をかけられていたとはいえ、いずれも両手はいわゆる前手錠の状態であり、隙をみてガムテープを自力で外し、隣家に大声で助けを求めるなどして、被告人の財物奪取を妨害することもまったく不可能というわけではない状況にあり、被告人も、当時、被害者との会話等を通じてこのような状況を認識していたのであり、その上で被告人が被害者両名を殺害し完全にその反抗を抑圧した上で現金等の財物を奪ったものであることも明らかである。そうすると、被告人が被害者二名を殺害した行為は、財物奪取の手段でもあるというべきであって、被告人において、被害者二名の殺害と財物奪取とが別個の判断に基づく行為であるといえないことは明白である。

当裁判所は、以上のように、被告人の殺害行為が、財物奪取の手段たる暴行脅迫にほかならないものであることから、判示第二のとおりの強盗殺人を認定したものであり、弁護人の所論は採用できない。

第二  責任能力について

弁護人は、「被告人は、本件犯行当時、多量の睡眠薬を服用した影響とチングレクトミーの後遺症により、理非を弁別する能力を著しく欠き、心神耗弱の状態にあった。」旨主張する。

よって、検討するに、確かに被告人は本件犯行当時かなりの睡眠薬を服用しており、かつて脳に対する外科的侵襲を伴う手術であるチングレクトミーを施行されていたのであるが、被告人はかなり以前から薬物を濫用しているので、薬物に対する耐性を考慮に入れねばならず、また、右の手術の現実的な効果、後遺症の有無を知る必要がある。これらをみるために被告人の生い立ち、生活状況、薬物の使用状況、チングレクトミー施行前後の被告人の行状の変化の有無、本件犯行を敢行するに至った経緯、犯行時及び犯行後の被告人の行動状況等をまず検討し、チングレクトミーについては、これを施行した医師の見解をみるとともに、犯行時の被告人の心神の状況については、鑑定人や医師の専門家の意見があるので、これらも検討してみる。

一  認定事実

前掲証拠のほか、〈書証番号等略〉によれば、次の事実が認められる。

1 (被告人の生い立ち)

被告人は、昭和四年一月長野県北安曇郡〈番地略〉で当時木材業を営んでいた父甲1と母甲2(のちに入籍し甲2、以下「甲2」という。)との間に長男として出生し(外に父と先妻との間に二女一男がいる。)、同八年ころ両親と共に上京し、同一六年三月東京市牛込区内の尋常小学校を卒業して東京高等工学校附属工科学校機械科に進学したが、貧困のため一学年終了時に退学して同市中央区内の鉄工所の原寸工となり、同校の定時制二年に再入学したものの、戦災のため中退して疎開し、終戦間際ころ家族とともに長野県松本市に移った。

2 (睡眠薬の常用)

終戦後、被告人は、父の経営する食堂の手伝いをする傍ら、生活を向上させようと考えて英語を学び、昭和二四年一〇月電気通信省新潟電話局の臨時雇の通訳人となり、仕事をしながら地元の文学同人雑誌の会員になるなどしていたが、同二五年五月ころ、勤務先の女性との恋愛問題から睡眠薬自殺を図って病院に収容され、回復した後の同年一〇月ころ在日米軍防諜隊(CIC)の通訳人となった。

被告人は、性的禁欲が自己の知的能力を高めると信じてそれを実行し、その後、医師から禁欲の害を諭されて昭和二五年暮ころから月一回遊廓に通うようになったが、昭和二七年ころ、禁欲を始めた後に自分が他人から手癖が悪いと疑われているという強迫神経症的な症状に悩むようになり、その後も別の悪夢を繰返しみるなどしたことから、精神科医の診察を受けてバルビツール酸系薬物の注射を受けたところ、羞恥心が消えてそれまで他人に話せなかった事柄についても医師に打ち明けることができた。そこで、被告人は、羞恥心や自意識過剰を払拭する目的で、当時睡眠薬として市販されていたバルビツール酸剤を自ら入手して注射したり、同じバルビツール酸系の睡眠薬であるアドルムを服用するようになったが、同二八年ころには睡眠薬の使用をやめ、眠気ざましのためカフェイン剤を常用するようにもなっていた。

3 (粗暴犯の反復等)

昭和二九年CICが廃止されて、被告人は職を失い、上京して東京都板橋区上板橋の両親の家で数か月間同居し、予備校等の英語講師として働き、語学の研究者を目指したが、自宅やその後寄宿した貸間では隣室のラジオや電蓄の音などが気になって勉学に集中できず、飲酒して気を紛らわすようになり、ついに転職を決意した。なお、その間の同年七月ころ、被告人は、飲酒しての帰路、ポン引きを手拳で殴打して負傷させ現行犯逮捕され、起訴猶予処分となっている。

昭和三〇年五月ころ、被告人は、長野県北安曇郡姫川第三発電所建設現場、さらに奥只見の黒又川開発工事の重量鳶となり、設計図が読めることから人夫の親方となった。昭和三二年一月ころからは上高地の道路改修工事現場で土工として働いたが、同年七月ころ、同僚を殴打する暴行事件を起し、さらに同年八月、道路改修の手抜き工事を当局に知らせるなどと言って雇主から現金五万円を脅し取る恐喝事件を起し、これらを併せて起訴され、同年一二月二八日に長野地方裁判所松本支部で懲役一年六月(三年間執行猶予)の有罪判決を受けた。その後被告人は木曽福島のダム工事現場で働いていたが、同三三年八月、飯場で同僚の人夫を相手に取っ組み合いの喧嘩をした際、その仲裁に入った者を手拳で殴打して負傷させ、さらに当初の喧嘩相手をモンキースパナで殴打するなどして全治約一か月の肩甲骨骨折等の傷害を負わせ、これを止めようとした者ら二名を樫棒で殴打するなどして、うち一名を負傷させる傷害・暴行事件を起こし、それに先立って同年七月に敢行していた、友人の休業補償等の支払いを求めてその勤務先会社の責任者と交渉し現金一万円を脅し取るという恐喝事件をも併せて起訴され、同年一二月二三日、長野地方裁判所木曽支部で懲役一年六月の実刑判決を受け、前刑の執行猶予も取り消され、同三四年一月から同三六年八月の仮出獄まで浦和刑務所、長野刑務所で服役した。

なお、被告人は右の恐喝事件を起こしたころ、羞恥心等を消して平常ではできないような行為もできるようにするため、再びアドルムを服用するようになった。

被告人は、仮出獄後、赤羽団地の建設現場で鉄筋工として数か月稼働したが、気持ちの荒む飯場生活よりも、身につけた語学を利用して翻訳の仕事をしようと考え、タイプライターや辞典類を買う資金を貯めて上板橋の親元に戻り、昭和三七年春ころから内燃機関に関する翻訳の仕事を始め、同年一二月ころからは「鬼山豊」などのペンネームでスポーツ新聞にアメリカのプロレスリング等に関する翻訳資料を提供したり、記事や小説を寄稿して生活費を得るようになった。やがて被告人の寄稿先は他の夕刊紙やスポーツ雑誌にも広がり、次第に収入も増えて、親にも金銭的な援助ができるほどになった。

被告人は、昭和三八年ころからアドルムを常用するようになり、平均して月に二、三回、適量以上に服用するようになっていた。

4 (桜ヶ丘保養院への措置入院とチングレクトミーの施行)

被告人は、かねて実妹J(以下「J」という。)が母甲2の世話をしないなどと不満を抱いており、昭和三九年三月四日ころ、Jに電話をかけて、母の話相手になって欲しいと頼んだところ、Jから、「前科者にとやかくいわれる筋合いはない。」などと言われ、その後テレビを購入するための保証人になってもらおうとしていた従兄弟戊に電話をかけた際にも、同人から前科者の保証人にはなれないと断られた。被告人としては、翻訳の仕事のためにテレビが必要であり、これを買う保証人になるのを断ったのは理不尽と考えて立腹し、戊の勤務先に押しかけて同人を事務椅子で殴打するなどして暴れ、さらに、入れ知恵をしたと思われるJに電話をかけて、「今晩お前のうちに行くから首を洗って待っていろ。」などと申し向けた上、同女方へ赴き、土足で上がり込んだところ、警察官二人と被告人の父甲1が来ており、父から殴打されたばかりか、Jには逃げられたため、腹立ち紛れに同女方の家財道具を壊して暴れ、警察官に器物毀棄の現行犯人として逮捕され、勾留された。なお、被告人は右事件当日の朝から合計一〇錠くらいのアドルムを服用していた。

右勾留中、被告人は、告訴が取り下げられたのに勾留が続いており、これでは新聞記事等の著述もできず生活の基盤を失うとして、留置場内で大声を出して騒ぎ、警察官に当たり散らし、検察官に対しては早く釈放するよう強く抗議するなどの行動に出た。そして、被告人の母甲2からは、被告人が新潟で自殺未遂事件を起こして以来、警察ざたを重ねるなど性格が変わり粗暴になったとして、被告人を精神病院で治療するよう警察に依頼していたこともあって、勾留期間の終りころ、被告人は検察庁で桜ヶ丘保養院副院長のD医師から精神診断を受け、さらに、東京都衛生局精神衛生課梅ヶ丘分室で診断を受けた結果、爆発傾向の性格偏倚があるとして、桜ヶ丘保養院に措置入院となった。

同院では、A医師が被告人の到着時に問診を行ない、被告人を「対人対物暴行(対象、人、社会)、昭和二三年ころから性格偏倚露呈、精神病院入院・受刑の既往あり」として精神病質と診断した。被告人の治療は主にA医師が担当したが、同医師は、被告人をその生活歴などから、爆発性、気分易変性、情動不安定などを主徴とする精神病質者であるとして、精神療法を実施し、面接説得することにより被告人に自己を洞察させ、自己の性格の偏りを悟らせて矯正しようと試みた。

しかし、被告人は、自分のこれまでの暴行事件等はいずれもそれなりに理由があり、異常な環境に置かれた人間の正常な反応であるなどと主張し、措置入院は不当であると反発し、六法全書を購入して読むなどして毎日のようにA医師に議論を挑み、これを打ち切ろうとする同医師を力ずくで引き留めようとすることもあった。また、入院中、医師の許可を得て、スポーツ新聞社、雑誌社に原稿を書いて送っていたが、隣室の患者が騒いで執筆の邪魔になると大声を上げて叱責したり、精神病院からの脱走を企て、母甲2に手紙で依頼してひそかに金鋸の刃を入手し、独居室の鉄格子を切断するなどしていた。

当時、桜ヶ丘保養院では、てんかん病質的傾向を有し、爆発性、気分易変性を主徴として反社会的傾向の強い精神病質者に対しては、まず精神療法等を施行し、その効果が上がらず、社会復帰が困難であり、精神外科的治療が効果を挙げ得るという予測のある症例について、チングレクトミーを施していた。チングレクトミーとは、精神外科手術の一種で、患者の攻撃性や爆発性を選択的に除去することを目的とし、患者の右前頭部の頭皮を開き、頭蓋骨を必要最小限度に切り取って脳硬膜を開き、大脳裂を拡げて視認できる、脳梁のやや上部に位置する部位である帯状回(帯状回転、帯回ともいう。)の前部に外科的侵襲を加える手術である。被告人は、入院中にチングレクトミーを施された患者を見て、手術の成否にかかわらず、その手術の結果患者は廃人になってしまうと考え、手術をしたら自分は生きてはいないなどとA医師に告げて自己に対するチングレクトミーの施行を拒否し、また、昭和三九年八月下旬ころに母甲2を介して、東京都衛生局宛てに手紙で問い合わせ、甲2にも、桜ヶ丘保養院から何か連絡があればすぐ教えてくれるよう依頼するなどしており、自己の意に反してチングレクトミーを施行されることはないものと考えていた。

一方、A医師は、被告人に対して、精神療法を施してもその効果があがらなかったことから、チングレクトミーを施すことにし、母親の甲2に対して、「手術をすると凶暴性はなくなるが、気力がなくなって翻訳の仕事が半分か全然できなくなる。」などと説明したが、甲2も、被告人の凶暴性がなくなり他人に迷惑をかけることがなくなるのならやむを得ないと考えて手術に同意した。

そこで、A医師は、手術の準備を続け、同年一一月二日、当時桜ヶ丘保養院の医長だったE医師が執刀者となり、A医師とF医師がその助手となって、被告人にチングレクトミーを施行した。

被告人としては、入院前に飲酒したり睡眠剤を多用したため肝臓が悪くなっていて、A医師がその肝臓の検査をするものと考えて、診察等に応じていたのであるが、検査の一環と思われる注射を受けたのちに意識を失い、二、三日経過して、ベッドの中で頭に包帯を巻かれて寝ている自分に気付き、ひどい頭痛がすることなどから、チングレクトミーを施行されたことを察知した。この際には、A医師に対する怒りの感情は生じず、被告人としては、脳細胞は一度死んだら復活しないので悔やむだけ損だと考えて諦め、手術を受けたことにより自己の能力がむしろ改善されたものと信じることにした。

5 (術後の経過)

被告人は、チングレクトミー施行後、爆発的傾向が消褪して適応が良好となったと診断され、昭和四〇年三月三日仮退院して上板橋の自宅に戻り、その後数回通院して経過観察と精神療法を受けていたが、翻訳の仕事を再開する自信もなく、不安感にとらわれるようになって、A医師に相談した。A医師は、被告人が自信喪失、挫折感、不眠等の精神衰弱様状態になっていると診断して、同月二九日被告人を再入院させた。被告人は、院内で再び翻訳の仕事ができるようになり、同年一〇月四日、再び仮退院した。

被告人は、仮退院後、しばらく上板橋の両親の自宅に身を寄せたのちアパートを借りて一人で住むようになり、昭和四三年ころまでスポーツ関係の著述に専念していた。被告人としては、手術されたにしては著述の仕事は順調であったものの、原稿を書く総量は手術前の五分の一くらいに減り、次第にものを書くことに苦痛を感じるようになったことなどから、昭和四三年四月ころには大型特殊運転免許を取得し、機をみて自ら片足を切断するような事故を起こし、労災保険金を得て生活しようなどと考えて、そのころから千葉県の山砂採取現場でブルドーザーなどの運転手として働いた。しかし、昭和四四年一月ころから、時々てんかん発作に襲われるようになったことから、医師の診察を受け、同年四月てんかん治療薬としてフェノバルビタールの投与を受けるようになった。

その後被告人は、昭和四四年一〇月ころ名古屋へ行き、自動車修理工場の見習工をしたり、飼料工場や外国船の警備会社に勤務するなどしたが、てんかん発作が激しくなって、昭和四五年一月ころ名古屋市内の病院で診察を受け、発作性眩暈症と診断され、チングレクトミーの後遺症であると告げられた。

6 (粗暴犯等の再開)

その間の昭和四四年三月、被告人は、新宿駅地下中央広場で喧嘩相手を足蹴にするなどの暴行事件を起こし、同四五年四月に罰金八〇〇〇円に処せられ、また、同年七月ころ、愛知県内の飼料工場で稼動中に、腰を痛めたのは工場長の管理が杜撰であったからであり、本社に知らせるなどと工場長を脅して五万円を受けとり、恐喝罪で逮捕されたが、被害弁償して起訴猶予となった。なお、その犯行の際、被告人は、羞恥心や抑制を払拭する目的で、フェノバルビタールを服用していた。

さらに、被告人は、昭和四六年六月ころ、外国船の警備会社で仕事中に荷役会社の人夫頭に殴られて眼鏡を壊し、その弁償を求めて、椅子で荷役会社事務所内の電話機等を壊すなどし、脅迫罪で逮捕・勾留された後、母甲2に迎えられて当時埼玉県入間市に居住していた両親のもとに一時身を寄せ、勾留中にてんかん発作で助骨を折る怪我をしていたため、しばらく静養していた。

被告人は、静かな環境さえあれば著述業ができるのではないかと考え、良い環境の借家を得るのに必要な手っ取り早い資金調達の方法として強盗を企て、昭和四六年九月二七日、アドルム、ノッカス(当時市販されていたバルビツール酸系薬剤)及び酒を併せ飲んだ上、横浜市中区伊勢佐木町の貴金属店に顧客を装って赴き、切出しナイフを店員の脇腹に突き付け、「動くな。騒ぐとけがをするぞ。」など脅したが、店員に切出しナイフを押さえられて逮捕され、その際加療約一〇日間の傷害を負わせる強盗致傷等事件を起こし、同四八年七月一二日横浜地方裁判所で懲役四年の実刑に処せられた。なお、この裁判において、飲酒と薬物の使用による被告人の責任能力が争われたが、裁判所は、「医師二名作成の各精神鑑定書によると、本件犯行当時、被告人の精神状態は精神障害と呼べる程の状態ではなかったことが認められ、本件犯行の態様及びその前後の行動並びに被告人の生活歴などを総合して考えると、当時、被告人の是非善悪の弁別能力は、著しく減退してはいなかったものと認められる。」旨の判断を示している。

被告人は、昭和四八年七月一八日から同五〇年一一月二〇日まで横浜刑務所で服役し、その服役中、不眠を訴えて医師から睡眠薬ニトラゼパムの投薬治療を受け、毎日二回分四錠を処方してもらい、そのうち二錠を睡眠薬として服用し、残りを隠し持って自らてんかん防止用として四錠ないし五錠をまとめて服用したりしていたところ、てんかん発作は、出所までにほぼ消失した。

被告人は、出所後、横浜市磯子区内にある実弟丙(以下「丙」という。)の借家に身を寄せ、英語塾を開こうとしたがうまくいかず、丙が経営する旅行業等を営む会社から翻訳の仕事をもらうようになった。被告人は、丙の兄である自己が前科を有することを隠すために、飲食店で知り合った乙に頼んで昭和五一年二月同人との養子縁組届をし、乙に姓を変えた。

このころから、被告人は、強盗致傷罪等で服役したことなどで劣等感や恥辱感、自分が生きている価値はないとの強迫観念にとらわれるようになり、外出するときには、このような感情を払拭するため、適量の二倍ないし三倍の睡眠薬を服用するようになっていた。

7 (フィリピンへの渡航)

丙は、フィリピン人の知人から、同人の経営するフィリピン共和国マニラ市にある会社で、英語に堪能で砕石機械の取扱いを現地人に教えることのできる日本人を社員として採用したいので紹介してほしい旨依頼され、当時職を探していた被告人が、かつて工科学校で学んだ機械関係の知識を持ち、かつ英語力もあると考えて、被告人にその話をもちかけた。被告人も、自分にうってつけの仕事で再出発ができると考え、是非やらせてほしいと申し出て同社に採用され、昭和五一年四月勇んでマニラに渡航した。

マニラにおいて、被告人は、現地での生活には十分な収入を得ていたが、到着早々から宿泊先でいざこざを起こすなどし、勤務先からはさしたる仕事も与えられず、その上仕事についてみて自分の英語力等が予想外に低いことを思い知らされ、かといって今更努力して勉強する気力も起こらないまま、劣等感や自意識過剰にとらわれ、外出時にはこれらの感情を鈍麻させ払拭させるために飲酒酪酊して行ったり、現地の医師あるいは一時帰国した際日本の病院で入手した睡眠薬を適量の三倍ないし四倍くらい服用した上で通訳の仕事をするということもあり、その頻度も週に二回くらいになっていた。このように酒や睡眠薬に耽る生活を送っていた被告人は、真面目に出勤せず、上司と衝突したり現地人に暴力を振るって警察沙汰になるなどの不行跡を重ね、勤務先を解雇されてしまった。しかし、母甲2が被告人を外国に置いてほしいと丙に懇請したことや、被告人自身も帰国を望まなかったことなどから、被告人は、失職した後も、丙の金銭的援助によりマニラでの生活を続けた。被告人としては、小説を書こうと思い立ったが筆が進まずに経過するうち、反政府運動者を援助したとして現地の警察に逮捕される事件を起こし、国外強制退去を免れるべく運動した丙らの計らいで、失意のうちに、昭和五三年二月二五日帰国した。

8 (A医師殺害の決意とその準備状況)

被告人は、帰国途上、挫折感を覚え、自己が無能になったと痛感し、最後の生活基盤を失ったと考えて絶望したあげく、自殺を決意した。そして、自己の人生を振り返り、かつては英語の修得などに必死で努力し、無学歴でも通訳になるほどの知能を持ち、粗暴犯などの前科を重ねたものの、立ち直って著述業で生活し、平均以上の収入を得るようになったところを、たまたま粗暴犯罪を惹起したことを契機に桜ヶ丘保養院に措置入院させられ、主治医となったA医師が、真剣に観察し慎重な判断をすれば手術が不要なことが分かったはずなのに、それをせずチングレクトミーを自分に施行したために、自由奔放な想像力や直観力を失って小説などを書くこともできなくなり、これから生活をやり直すだけの根気も生じない状態になってしまったのであるから、自分が死ぬのなら、その手術をしたA医師も殺害しなければならないと考えて、A医師殺害を決意するに至った。

被告人は、帰国後、丙から貰った生活資金で東京都練馬区〈番地略〉のアパートを借りて一人で住まい、A医師を殺害して自殺する前に何か建設的なものを残したいと考えて、新型エンジンの設計に取りかかってみたり、チングレクトミーを主題にして小説を書こうとしたりしたが、いずれも完成させることができず、最初の決意どおりにA医師の殺害を実行することにした。

被告人は、A医師が自動車で通勤する途上を待ち伏せて殺害することを考え、同医師の乗用車を特定するため、昭和五三年六月ころ、桜ヶ丘保養院の医局にA医師を訪ね、その後も通院を装って同院でA医師に診察を受け、同院付近に張り込んでは同医師の乗用車を探したり、さらには、当時A医師が兼務していた多摩済生病院にも赴いて、乗用車を探そうとしたがうまくいかず、A医師の勧めによりF医師の診察を受けるなどするうちに体調を崩してしまった。被告人は、国立診療所中野病院で肺結核と診断され、同年一〇月二五日から同年一二月一一日まで入院し、その後も通院投薬による治療を続け、生活保護を受給して生活しながら、A医師殺害を実行するための体力の回復を待った。

そのころ、被告人は、マニラ滞在時と同様に、自己の劣等感等を払拭するため、睡眠薬や飲酒による酩酊下に外出し、肺結核による入院後は、結核治療薬の影響で飲酒できなくなったことから、より睡眠薬に依存するようになり、フィリピンで入手していた睡眠薬がなくなると、複数の病院へ行って不眠或いはてんかんの防止薬として睡眠薬を貰い、これを外出時にまとめて服用するなどしていた。

昭和五四年春ころになって体力が回復してきたことから、被告人は、ニトログリセリンを製造して、A医師の運転する自動車ごと同医師を爆殺する計画を立て、図書館でその原料などを調べ、同年四月下旬ころその原料を実際に購入してみたが、結局これを製造するのが難しいことが分かり、黒色火薬を製造して爆殺することに計画を変更し、再び図書館でその原料などを調べ、同年五月ころ原料を購入したものの、その製造には特殊な機械が必要なことが分かって、これもあきらめ、結局爆殺の方法を断念した。

そこで、被告人は、A医師をけん銃により射殺することに計画を改め、同年七月上旬ころ、改造して凶器とするためにモデルガンを購入したが、たまたま当時勤務していたパン工場を解雇され、その解雇予告手当の支給名下に勤務先から現金二〇万円を脅し取ることができたことから、同月二三日から二六日にかけてフィリピン共和国マニラ市へ行って真正けん銃を入手しようと試みた。しかし、目指すけん銃の売主に会うことができなかったため、けん銃を入手することができなかった。

ところが、被告人は、昭和五四年八月初めころ、都立中央図書館で全国医師名簿を調べA医師の自宅住所を知ることができ、その下見をした上、その家族構成を知るため、小平市役所へ赴き偽名を用いてA医師の住民票写しを入手し、同医師と同居しているのは四四歳の妻Bと七〇歳の義母とみられるCのみであることを知った。

そこで、被告人は、A医師の帰宅前にデパートの配送員を装って同医師宅に押し入り、けん銃で脅して、その妻や義母に手錠をかけて無抵抗状態にした上、A医師を待ち受け、帰宅した同医師にも手錠をかけて抵抗できなくした上、自分が同医師を殺害しようとする理由を説明して死の恐怖感を味あわせ、同医師をして、自分にチングレクトミーを施行したことの非を認めさせて、チングレクトミーがいかに非人道的で悲惨な後遺症をもたらすかということを書き残させてから同医師を殺害し、その後で自らも命を絶とうと考え、同月一〇日ころから同年九月一〇日ころにかけて、再度モデルガンや必要な工具類を購入して改造を試みるとともに、手錠六個やしゅろ繩三束を購入し、これらを入れて配達品に見せかける箱を入手するため、三越デパートで婦人帽を購入して円型ボール箱に入れてもらったり、刺繍業者に頼んで白色野球帽に三越デパートのマークを入れさせるなどして準備を進めた。しかし、モデルガンの銃口をうまく開けることができなかったため、被告人は、結局改造をあきらめ、同年九月一二、三日ころ、最終的に切出しナイフによりA医師を殺害することを決意し、切出しナイフ一丁と予備の凶器としての千枚通し一本、目隠しや猿ぐつわ用にガムテープ一巻を購入するなどし、他方、A医師を殺害する理由をしたためた新聞社宛の犯行声明文や母甲2宛ての遺書も作成しておいた。

なお、被告人は、同年九月四日ころ、東京大学付属病院で不眠等の治療薬として、T―amoB(アモバルビタール及びブロムワレリル尿素の合剤)二一〇錠及びネルボン(ニトラゼパム)一四七錠を受けとっていた。

被告人は、このようにしてA医師殺害の準備を調えた上、同月一七日を犯行の決行日と決めていたところ、神経性とみられる激しい下痢になって決行日の延期を余儀なくされた。被告人は、自己の恐怖心や不安感を鈍麻させて気持ちを落ち着かせ、行動力を賦活増大させるべくバルビツール酸系の薬剤を同月二〇日ころと同月二二日ころの二回にわたり各一〇錠服用したところ、下痢の症状はおさまり、気持ちに余裕が出て、その間、見納めと思って母に会って話をしたり、犯行時の携行品の点検を重ね、万一A医師殺害に失敗した場合の逃走用に背広や靴を携行品に加えるなどし、最終的に犯行の実行日を同月二六日に決め、その前日にも精神安定、行動力賦活の目的でバルビツール酸系の薬剤三〇錠とネルボン一五錠を服用し、A医師の帰宅時間を確認するため、偽名を使って桜ヶ丘保養院に診療依頼を装った電話をかけるなどした。

同月二六日、被告人は、午前九時ころ自室で起床したのち、午前一一時ころから犯行道具等を点検し、凶器として使用する切出しナイフ一丁及び予備の凶器の千枚通し一本、手錠六個、一部を改造したモデルガン一丁、ガムテープ一巻、白色細紐としゅろ繩三束、円型帽子入れボール箱一個、三越デパートの包装紙、同デパートのマークを刺繍した野球帽一個、黒縁眼鏡一個、指紋を残さないための軍手一双及び手袋二双半、着替えの背広上下一着、声明文、遺書、自己の行動力賦活用の前記T―amoB数十錠、カフェイン剤等を点検整理し、同日午後三時一〇分ころまでに、手錠、モデルガン、ガムテープ、しゅろ繩等を帽子入れボール箱に納めてデパートの包装紙で包んだ上、雨が降っても濡れないようにポリ袋で覆い、白色サファリ上下の上に紺色背広上衣を重ね着し、切出しナイフと布につつんだ千枚通しをズボンの右後ポケットに、軍手をズボンの左脇ポケットにそれぞれ入れ、野球帽や声明文、遺書などは三越デパートの買物用手提袋にこうもり傘と共に入れるなどの準備をし、起床から出発までの間に、自己の気力や行動力を賦活する目的で、前記T―amoB合計三〇錠を服用した上、自室を出発し、西武池袋線の電車に乗り、同日午後三時半ころ池袋駅で下車し、同駅東口コインロッカー内に声明文と遺書等を入れ、さらに前記T―amoB二〇錠を服用した後、高田馬場を経て西武新宿線の電車に乗り、同日午後五時前ころ西武新宿線小平駅で降車した。被告人は、改札口を出て人目につきにくい所でデパートのマークを刺繍した野球帽を被り、眼鏡を鼈甲縁のものから黒縁のものに換えるなどしてデパートの配送員らしい装いにした後、A医師方を目指して歩き出した。

9 (本件犯行状況)

本件の犯行状況は、前掲(罪となるべき事実)で認定したとおりである。すなわち、①同日午後五時過ぎころ、A医師を殺害する目的で、右の切り出しナイフ等の凶器を携帯して、同医師方へ行き、②同医師方に押し入って家人二名を縛り上げた上同医師の帰宅を待ち受けたが、同医師がすぐには帰宅しないことが明らかとなったことから、後に同医師殺害の目的を遂げるため、捕縛中の家人二名を殺害して同家の現金等を奪取し、③その逃走中に警察官から職務質問を受け、犯行に供した切出しナイフを携帯しているのが発覚し逮捕に至ったものである。

なお、被告人は、A医師方に押し入ってから被害者二名を殺害するまでの間に、自己の行動力を賦活する目的で二回に分けて前記T―amoB合計二〇錠を服用しており、そのほかに覚醒作用を得る目的でカフェイン剤をも服用していた。

10 (家人殺害後の被告人の行動状況)

被告人は、Bらを殺害後、両名の遺体から手錠やガムテープ、しゅろ繩などを外し、サファリ上下を脱いで背広に着替え、玄関の植木鉢脇に隠しておいた靴を取り出すなどして帰る身支度を整え、遺留品がないことを確認したのち、既に見つけておいた現金、預金通帳等を奪取し、その強盗殺人事件が流しの者による犯行であるかのように見せかけるため、小物入れの抽斗を抜いて中の物を散乱させておくなどの擬装工作をした上、同日午後九時ころA医師方を出て、門の外で軍手を外し、切り出しナイフはズボンの右後ろポケットに入れ、小平駅近くまで行って前記T―amoB二〇錠を服用するなどした。

その後、被告人は、西武新宿線で高田馬場駅を経て池袋駅へ行ったところ、国鉄池袋駅南側出改札口近くで、持っていた帽子入れボール箱が壊れ、中に入れていた手錠を落としてしまったため、しゃがみ込むような姿勢で右ボール箱に拾い入れて、これをガムテープで補修していたところ、同日午後一〇時二〇分ころ、巡回警ら中の警察官に箱からはみ出していた手錠を見咎められ、職務質問を受けて、「手錠は趣味で持っています。」などと弁解したが、さらに質問を受けることになって、近くの池袋駅西口派出所に同行された。

被告人は、派出所で、自己の身分について、「練馬区富士見台二丁目…翻訳業藤井一郎」であり、現金の入った茶封筒に書かれている「A」はペンネームであるなどと虚偽を述べ、所持品の預金通帳、郵便物にBと記載されていることについて、「別れた妻の妹の名で、一緒に住んでいる。」、手錠については、「趣味で集めている。」「セックスに使う。」などと弁解した。また、所携の切り出しナイフについても、「セックスのとき、この刃物で相手を傷つけ、その血を見て互いに喜ぶんです。」などと説明し、警察官が、銃砲刀剣類所持等取締法違反により被告人を現行犯人逮捕しようとしたところ、「そんなに悪いことじゃないでしょう。」などと抗議をしている。

なお、被告人に職務質問をした松江修巡査は、その時の被告人について、言葉は優しく、話の内容は筋が通っており、矛盾がなく、口数の多い点を除いては普通の人と何ら変わらないとの印象を受けている。

二  鑑定結果及び証言等

チングレクトミーの効果に関しては、A医師は、捜査段階で供述しているほか、期日外証人尋問(昭和六二年六月一〇日施行)において要旨次のように証言している。

「ロボトミーは簡単な方法で鎮静作用があるが、患者はいわゆる廃人になってしまう。チングレクトミーはそれを避けるため、知の部分には全然さわらずに情意の部分を制限するために前部帯状回転を選んでこれを切除する。本人が統御できないような過剰な感情、過剰な意志を弱め、相応の情意にバランスをとることを目的とする。当時最新鋭の手術として世界的に行なわれていたものであり、これによる患者の知能的なレベルダウンはない。前部帯状回転に手術を進める際に止血のためにたくさんある細い血管をクリップで止めなければならない。クリップは止血のため外すわけにいかないので、これが頭部に残存するが、そのため脳の機能に影響することはないと思う。被告人の後遺症としては、本人が筆が進まないと訴える程度で、手術の前後で話し方に変りはなく、術後の知能検査でも、レベルダウンはなかった。犯行当時、被告人が善悪の弁別能力を欠いていたとは思わない。たくさんチングレクトミーをしたが、被告人はむしろ成功した例である。精神外科は、本人の知によって統制できない過剰な情意をカットするもので、これによって、情動行為を減弱させ、異常行動、反社会性を減らすことはできるが、情意のレベルを彼のあった以上にプラスするということはできない。」

また、A医師と一緒に被告人の手術に携わったE医師、F医師も、捜査段階でこれと同趣旨に帰する供述(〈証拠番号略〉)をしており、さらにF医師は第八回公判(昭和六二年四月二二日)においても「チングレクトミーは、攻撃性の強い性格異常の人には攻撃性が弱まる効果があると考えている。知の方には関係がないが、情の方に非常な変化が起きる。」旨証言している。

そして、本件犯行当時の被告人の心神の状態については、①精神科医師逸見武光による鑑定、②日本精神神経学会の「精神医療と法に関する委員会」や「保安処分に反対する委員会」の委員である精神科医師青木薫久の証言(第九回公判調書中の供述部分)、③被告人がマニラ在住当時に一時帰国しては治療を受けた東京大学医学部精神科医師佐藤順恒の証言(第一〇、一一回公判調書中の供述部分)があり、さらに、④筑波大学教授医師小田晋、医師荒崎圭介による再鑑定がなされている。

これらの要旨は以下のとおりである。(なお、被告人が本件犯行当時服用していた睡眠薬については、前掲関係証拠によると前記認定事実のとおりT―amoBと認められるが、鑑定人及び青木証人は当時の被告人の供述などからフェノバルビタールとしているので、以下そのまま記載する。)

1 (逸見鑑定)

逸見鑑定人が鑑定書に纒めた鑑定主文(要旨)は、「①被告人には、強迫神経症が見られる。その発症は二二歳以前と推定される。被告人はこの神経症のため当時より薬物を濫用し、一〇年以内に薬物依存に陥り、現在も継続している。②被告人は、自信の乏しい反面で狂信的な傾向の強い性格者で、その程度は異常といわざるを得ないほどである。③被告人は、右の薬物濫用のために粗暴な行為を繰り返し、それを理由にチングレクトミーを施行された。その後遺症として、前頭葉の機能低下を招き、著しく無気力になったり、高等感情が鈍くなったりしたことを否定できない。④本件犯行の動機は、右の手術に際して被告人の同意を得なかったことと、後に高等感情の鈍化を招いたことに対する恨みと考えられる。しかし、直接には右の薬物濫用による判断力の低下、感情の高揚、非現実的思考によるところが大きかった。(現在も自己顕示性が強い等の異常な性格傾向が見られるが、これは薬物濫用による性格変化や強度の自信欠乏に対する反動で、従来問題にされてきた爆発傾向は、薬物による酩酊によるものであったと考えられる。)」というものである。そして、右鑑定書中の「考察」として、要旨次のように記載している。「被告人は桜ヶ丘保養院入院時に既にアルコール飲料、バルビタール系薬物等の依存に陥っていたと考えられるが、起訴前鑑定、精神衛生法二七条による診察、入院時診察、その後の経過観察の総てにおいてこの点が見過ごされていた。桜ヶ丘保養院入院当時の被告人には本質的に自己顕示、情性欠如、爆発の諸傾向が強かったのか、それともこれらは薬物濫用の結果なのかが問題となる。暴力的になったのはアドルム濫用が始まった後であるところからは、自己顕示傾向は別として情性欠如と爆発傾向は薬物濫用の結果としての性格変化もしくは酩酊によるとも考えられる。ただし、入院からチングレクトミーまでに六か月以上の経過観察をしていたのであるから、もしも薬物の影響のみであればそれは消えていたはずとも考えられるので、その総てを薬物の影響によるとも断定はできない。昭和三九年当時であれば精神病質との診断で精神病院へ措置入院せしめたことを特に異例のこととする必要はない。しかし、本人に対する情性欠如、爆発等の傾向が著しい精神病質者との診断は、被告人が薬物濫用者であることを勘案すると問題がある。精神外科手術の対象としたことは、爆発傾向の著しい精神病質者をその主たる対象としていたのであるから、現在の時点で医療技術的に誤りであったとはいえない。被告人に施されたチングレクトミーについては、被告人の安静覚醒時脳波やCTスキャンの所見から、前頭葉はかなり機能低下をしているはずで、その意味で手術の目的は達しているのに、本人の問題(強迫体験、不眠、それらのための薬物濫用)は改善されなかった。訴えがまことにとりとめなく、まとまりを欠いていることや、表情の動きの乏しさは、脳萎縮によるものと考えられる。大脳半球間裂にクリップが残っていることから、後遺症としてのてんかん発作も否定できない。本件までの計画の進め方は極めて執拗で、この執拗さや計画の非現実さはかなり異様であるが、その根底には本人に固有の性格傾向と共に薬物濫用による夢幻性が加わっていたのだろう。」

また、逸見鑑定人は、第六回公判(昭和六一年一〇月七日)で、要旨次のとおり供述している。

チングレクトミー手術前と手術後で被告人がどのように変わったのかという資料が見当たらないので、類推するしかない。

チングレクトミーにより自己の行動を抑制する能力が衰えることを証明した研究は見当たらない。しかし、被告人が感情をコントロールできなくなる事態が次第に出て来ているので、怒りの感情を抱いた場合に、それをコントロールする能力はかなり衰えていたといわざるを得ない。メスが加わった場所から考えると、被告人が、書く言葉と話す言葉がずれるなど、自分が変わったと言っていることは、手術の結果と理解してもおかしくはない。人格変化があったことは事実であろうが、その程度ははっきりしない。強迫神経症の症状は出ており、神経症としては今は重くないかもしれないが、その基盤にある被告人の強迫的性格は非常に強く、現在も続いている。

チングレクトミーの手術の影響として、鈍感になることは避けられない。手術当時には分らなかったことだが、手術の部位が、大脳の右と左の連係をとる能力を司る部分にあまりにも近過ぎ、バランスのとれない行動に出る場合があり得る。行動自体が鈍くなるが、動き始めると行動の抑制が衰えるということである。手術の部位からして手術をされたために爆発的な行動に出るようになったということはない。客観的に見て、まとまりのある行動が取れなくなるということである。ある狭い視野の中で動いていくわけなので、そこの限りを見ていると、被告人の行動はある種のまとまりを示しているが、その外側との関連性がとれなくなっている。本人にとっては、ある程度相互に関連して脈絡のとれた行動をすることは可能である。ただ、被告人には、話題の転換の間に意味・関連性があまり見られないところがあり、そういうことは、日常のほかの行為としても出ていると思う。それは脳萎縮の結果と思う。検査の結果、大脳半球間裂にクリップが残っていることがわかった。手術時に脳動脈を傷つけたから止血のためクリップを入れたことは確かだが、当時の技術から考えて入れるのが当然だったか、注意すれば脳動脈を傷つけずにすんだかは、脳外科医の見解もまちまちで何ともいえない。精神状態に影響する場所にクリップがかかっており、前頭葉に十分な血液が流れず、その結果として萎縮を起こしているわけだから、美しいものを見て美しいと感じるというような高等感情は鈍くなると思う。

被告人は、手術の結果、美的感覚が鈍るとか、感情障害が起きているという意味のことを縷々述べており、これが本件犯行の動機の点で大きな影響を与えていると考えられる。しかしチングレクトミーは本件犯行に動機の点で関連するだけで、行為にこれがどこまで影響したかを指摘することは大変難しい。

それよりもフェノバルビタールの影響の方が大きいと考える。被告人が供述する程度の量のフェノバルビタールが身体に入れば、精神状態がいつもの通り保たれていることはあり得ず、もうろう状態に入るのが当然なのに、警察の調書を見ると、かなり細かく述べており、面接しても、要所要所は回答できた。フェノバルビタールの影響としてのもうろう状態が全体としては意外なほど少ないことが問題として残った。二、三日前に届いた被告人の手紙には、「警察での調べでは、自分から断言したことはない。現場検証のときに、事実をこうだったのかというふうに初めて知った部分もかなりあった。」と書いてあり、この手紙からすると、やはりフェノバルビタールの影響が相当あったと考えないと、本件は理解できない。犯行時の完全健忘の時間帯は、C殺害の際の細部のみであるが、その他のところも所々抜けているはずであり、全体として犯行当時中等度のもうろう状態が続いていて、そして、軽度のもうろう状態から覚醒という流れになっている。全体の行動からみると、最初の事件の辺りの酩酊状態はまだ軽度で、それから深く入っていって、覚めてきて軽度の酩酊状態で帰っていくという経過とみるのが自然である。しかし、酩酊の程度は、これだけのフェノバルビタールを服用したにしては軽い。全体としては中等度の酩酊状態であるが、完全健忘の時間帯が数分あるので、この辺りになるとかなり重度の意識障害である。教科書的には意識障害は重度と軽度の二つで、中等度という表現はほとんど使われない。重度とはある時間帯のことが全然思いだせない場合、軽度とは当時の判断力ないし判断に基づいて行動する力が衰えている、日頃の本人と比べて明らかに判断あるいは行動の組立てがおかしい場合をいう。中等度といったのは強い意識障害があったのは限られた時間帯だけであるからである。被害品のことについて異様に感じたことはあるが、フェノバルビタールによる酩酊状態が起きても不思議でないことから、それを問題とはしなかった。被告人が恨みに思ったことを復讐するためには現実的な選択肢は沢山あるのに、こういう形での事件を決意したことが、自分の恨みを晴らすのには適切な方法ではないという意味で、被告人は現実を欠いている。

精神病質者に精神外科を行うことは当時の精神外科医の間でも見解が分かれていた。最初に手術をした人たちにはかなり強い反対があり、その後手術もやむを得ないという考え方が出たが、今日ではそれもまた否定されている。私としては、精神病質者を精神医療の対象とすることには反対であり、精神外科の対象としたことにも賛成できない。

2 (青木証言)

証人青木薫久は精神神経科医師であって、第九回公判(昭和六二年九月一四日)において、逸見鑑定人の鑑定書及び同人の証言を含む当時の本件事件記録を前提に、要旨次のように供述している。

被告人は二一歳ころ強迫神経症の症状が出ているとみられる。しかし被告人の陳述からすると、非常に軽いと思う。内容は、人の物を盗ったと疑われはしないかと恐れる嫌疑恐怖、醜貌恐怖、特定の数字にこだわるところなどであり、それがずっと続いているようだ。この強迫神経症の症状は重いものであっても、措置入院の対象となる精神障害には当たらない。被告人は二一歳のときに新潟大学精神科でバルビタールの静脈注射を受け、気分が良かったことから、非常に眠剤中毒に傾斜していたとみられる。被告人は生まれつきの性格異常で粗暴な行為があったというのではなく、眠剤中毒、依存が原因ではないか。依存だけでは措置入院の対象にならない。煎じ詰めると精神病質を理由に措置入院させることに問題がある。逸見鑑定で被告人の脳の断層撮影をした結果、脳の軽度の萎縮が全体に見られ、殊に前頭葉の萎縮があるとされている。脳波検査の結果でも、前頭葉のほうに徐波が出て、右のほうでは頭のてっぺん辺りまで徐波が出ているとされており、かなり脳の侵襲が大きかったとみられる。またクリップが残存しているところからみて、チングレクトミーだけでなく、前大脳動脈結紮術を施行したものと考えられる。チングレクトミーと一緒に前大脳動脈結紮術をした手術によって患者が意識障害、昏迷状態となって扱い易くなったと書いてある論文もある。前大脳動脈結紮術を行うと、前大脳動脈の流れを止めるので、当然前頭葉はすぐ酸素欠乏となる。脳細胞は非常に酸素欠乏に弱く、すぐ壊れてしまい再生しない。被告人の供述によると、手術後二か月間全然起き上がれなかったというのだから、おそらく最初のうちは意識障害も出ていたと思うし、背中にひどい蓐瘡ができた、踵は崩れた、というのであるから、このように生体侵襲の大きい手術は、単なるチングレクトミーに伴う止血のためでなく、積極的に意識障害を起こさせるために前大脳動脈結紮が行われたものと考えられる。クリップの残存により、最も人間らしい機能を司る部門と言われている前頭葉が広範に破壊されていると考えざるを得ないので、当然知的活動が落ちている。それにチングレクトミーもされているので感情も動かなくなっている。

被告人は当時翻訳で身を立てていたので、このような手術は、被告人の社会生活能力を奪い、ある意味では生活権を奪ってしまうものである。広い意味での社会治安のために精神外科が行われたことになる。医療は本人の利益に奉仕するために行われるべきもので、周りの利益のためにすることは絶対に許されてはならない。

フェノバルビタールの適量は0.2グラム、せいぜい0.3グラムだと思う。被告人は犯行前に一ないし二グラムという大量のフェノバルビタールを飲んでいたというのであるから、当然意識状態がおかしくなっていたと推測される。一ないし二グラムのフェノバルビタールを飲むと、普通の人なら死ぬ可能性があるが、被告人は、しょっちゅう飲んでいて、耐性がついていたので、死ななかったのだと思う。被告人が金品をとるとき、月給袋の中のお札を外に出し月給袋だけとって行くというおかしな行動をとっているのは、薬物による酩酊、意識障害があったためである。財産的価値のない新聞講読料の領収書もとったりしていて、被告人の行動にはまとまりがない。酩酊は、やることがちぐはぐになる、まとまらなくなるという程度に達していた。被告人は同時にカフェインも飲んでいるので一種の中和状態にあったとも考えられるが、服用したバルビタールの量からすれば、中等度の意識障害があったと考える。薬剤に対する感受性には個人差があり、意識状態と薬物の量とが一対一の関係でストレートに判断できるというわけではない。被告人は、生活保護受給の打切りを申請してから、A宅へ行ったと述べており、もう自分が生きていくことを考えていないわけである。A医師がいたら、おそらくA医師に向かっていたであろうが、A医師が不在であったため、その段階でどうしたらいいかという新しい事態になった。この時に被告人が、自分の目的遂行のために適切な判断ができたかどうかにはかなり疑問がある。また、他にとるべき方法があったのにA医師を殺害したいという考えに発展したこと自体が、やはり脳を破壊されて脳の機能が落ちたことによるのではないかとも考えられる。私は、金品を取るということは被告人の犯行目的ではなかったと推測している。

3 (佐藤証言)

証人佐藤順恒は第一〇回公判(昭和六二年一一月九日)において、要旨次のとおり供述している。

東大病院で昭和五二年から昭和五四年にかけて被告人を診察した。被告人は昭和五一年に東大病院で花岡医師の初診を受けている。カルテの診断名は抑うつ神経症であるが、それは保険請求の関係での病名で、確かな診断はあまり確立していなかったと思う。私としては、被告人の話を聞いた上での一応の診断は、精神外科の後遺症とそれに基づく抑うつ状態と考えた。被告人は、マニラで仕事をしており、時々日本に帰国したときに診察を受けに来るという形だった。本人の希望もあって保険を使わずかなり多量に薬を出していた。当初は抗うつ剤と睡眠薬を組み合わせて投与していたが、途中から本人の希望で睡眠薬のみを投与していた。当時は、強迫神経症ととらえていなかったが、今考えてみると、話し方などに強迫的なところが現れていたと思う。むしろ、睡眠薬の依存傾向があることに注目していた。

精神外科の精神的な後遺症は、専ら本人の訴えからくみ取るしかないが、意欲が低下して気力が出ない、物事に感動することができなくなってしまった、という抑うつ状態と、てんかん様の発作を本人が強く訴えていた。私の診察当時は、被告人の脳波をとるなど精神外科の影響を他覚的・客観的に把握する作業はしておらず、もっぱら本人の訴えに基づいて判断するにとどまった。

逸見鑑定の結果なども含めて考えると、精神外科を受けた場合、被告人のような訴えが出るのは割合に一般的である。とりわけ被告人の場合は、脳内にクリップが残っており、ただでさえ脳にメスを入れられると、精神的・神経的にかなり老化し、例えば記憶力、記銘力の低下、極端な場合は物事を認知する力も低下が促進されると言われている。そういう影響があったことは否定できないであろう。

被告人はフェノバルビタールと言っているが、東大病院で事件前に投与していたのは、フェノバルビタールではなく、同じバルビタール系のアモバルビタールとブロムワレリル尿素の合剤T―amoBである。フェノバルビタールとアモバルビタールとは作用時間が違うが、どちらが強いというような比較はできない。

T―amoBは普通一回六錠一組で飲むことによりかなりの睡眠が得られる。七〇錠も飲むと、一般的には非常に深い睡眠に入り、場合によっては昏睡状態に陥る。極端な場合そのまま死に至る可能性もある。ただ、薬物の効き方は個人差が大きく、被告人は普段から睡眠薬をかなり飲んでおり、アルコールも摂取していたと思うので、睡眠薬の効果も出にくかったと思う。しかし、この点を考慮に入れても、七〇錠飲んだとなると、かなり強力な作用があったはずであり、そのまま寝なかったのがむしろ不思議なくらいである。

被告人は本件犯行前かなりの薬物を使用していたので、犯行当時はかなりの酩酊状態にあったと思う。睡眠薬を使用して、睡眠に至る前の酩酊状態では、まず抑制が欠如し、人を傷つけていけないと分かっていても、腹が立つとつい手が出てしまうなどというようにブレーキがききにくくなり、それと同時に一般に現実検討能力というか、物事を認識し、認識に基づいて適切な判断と行動を起こす能力が非常に低下する。本件では、A医師を殺害しようとして家に押し入ったという動機までの部分と、それ以降家族二人を殺害して逃亡するという現実の行為の部分とを明確に区別して考える必要がある。実際にやろうとしたことを被告人は変更しており、その変更過程における、薬物による酩酊状態と精神外科の後遺症による判断力・認識力の低下は無視できない。

精神外科は薬物療法の台頭とともに廃れていき、現在日本では行なわれていない。当時の精神外科は社会防衛的側面が強い治療法だった。精神外科は今後も復活させてはならない。

4 (小田・荒崎鑑定)

小田晋、荒崎圭介鑑定人の鑑定書の鑑定主文(要旨)は、「被告人は正常以上の知能を有する特定不能の人格障害者であり、犯行前後、バルビツール系睡眠剤への依存を有していた。犯行は精神外科手術により精神機能が低下したことに対する怨恨を動機として行われたところの、強い被害者意識に基づく支配観念に基づく確信的行動であり、チングレクトミーによる人格変化が本質的影響を有するものではない。犯時フェノバルビタールを服用していたが、服用自体、犯行を決意してから行われたもので、そのことが被告人の行動に本質的影響を及ぼしてはいない。従って、犯行当時、被告人の事理を弁識し、弁識に従って行為する能力には、著しい障害はなかったと考える。」というものである。そして、「総括と説明」として、要旨、「①被告人には、病的賭博、精神病質、自殺者の負因がある。父親との葛藤を有する貧困家庭に成育し、いわゆるエディプス複合体が強く形成されている。②被告人は、知的には本来普通以上でむしろ優秀な知能を有していたと言うべきであろう。鑑定時の検査からは、脳器質性の原因による痴呆の存在は認めることはできない。③暴力的財産犯の傾向は、チングレクトミー及び本件犯行の企図がなされる前から存在した。しかし、犯罪生活曲線は遅発型であり、犯歴に間欠があることから、典型的な犯罪性精神病質者とは異なる。④被告人は、フェノバルビタールの極めて大量の常用を続け、明らかに耐性の上昇が認められた。薬物依存であるが、薬物による中毒性精神病とまでいうことはできない。被告人は、DSM―Ⅲ―R(米国精神医学会の「精神障害の分類と診断の手引第三期修正版」)にいう特定不能の人格障害者であり、類てんかん病質ないしてんかん病質に相当する。⑤鑑定時の検査でみる限り、チングレクトミーの影響としての痴呆及び前頭葉症候群は認められない。被告人の暴力犯的傾向は、手術前から存在するもので、被告人の現在の状態像が、脳器質性人格障害によるものとはいえない。⑥被告人は手術後の執筆能力の低下、性欲の減退を訴えているが、被告人の生活の軌跡をみれば、手術後の無気力、無感動という状態は相当程度回復しているとみられ、むしろ被告人は手術後存在した創造力の低下及び手術後の通過症候群(一般的な脳障害後の可逆的症状)に対して、精神外科に対する一九七〇年代の種々の批判的風潮の中で、手術を行った医師に対する怨恨を固定化していった。その際に、強迫観念を持ち易く、執拗迂遠であるという元来の人格が極めて強固な支配観念である精神外科手術に対する怨恨と憤慨とに結びついて、これを公憤化して世間に訴えようという確信犯的信念となった。⑦復讐の意思を固めてその準備を行ったのは、犯行当日フェノバルビタールを服用する以前であって、犯行当日の服用は、犯行にあたって自分を鼓舞するために行ったものである。被害者両名を殺害したのは、A医師殺害計画を告知してしまっているので、後日これを実行するためには、被害者両名をこの場で殺害するほかないと判断したためである。バルビツール系睡眠薬は、時に抑制を解除させ、被害者に対する同情心を麻痺させ、薬物起因性情性欠如状態を惹起することがあり、これが本件の一見快楽殺人風の異様に残忍な殺害の手口と関係しているかも知れない。しかし、殺人の動機は了解可能であり、殺人行動は、服薬に関係なく着手されていたのであり、いわば被害者の二人は敵であるA医師の片割れとして殺害されたものである。」とする。

小田鑑定人は、第一七回公判(平成三年九月二日)及び期日外証人尋問(同年一一月七日、同四年一月三〇日)において、要旨次のように供述している。

被告人につき特定不能の人格障害と診断したのは、DSM―Ⅲ―Rの診断基準によったものである。DSM―Ⅲ―Rでいう人格障害の範疇は、クルト・シュナイダーの分類でいう精神病質とあまり変わらない。一九七〇年代における論争後の現在の精神保健法の運用においては、被告人に対して精神障害者として措置入院が適用されるか否か疑問であるが、昭和三九年当時には措置入院を適用されるものであったと思う。しかしこのことは本件犯行時の責任能力の判断とは直接関係がないことである。

チングレクトミーによって、確かに情動が鈍る、精神的に不活発になるということはあるが、前頭葉に重大な機能損傷を起こすことはない。行動の抑制能力を司る中枢はチングレクトミーによる侵襲の部位とはかなり離れている。

被告人の側脳室の前角はやや拡大していることがCTスキャンにより看取されるから、逆にいうと前頭葉の萎縮が少しあるということにもなるが、その型の脳室拡大は年齢的に脳動脈硬化による脳血管障害の場合でもあり得る全般的な萎縮であって、手術による侵襲のあとがはっきりしたような形での著明な萎縮ではない。手術前の被告人の脳の状態は記録がないので、チングレクトミーによる影響がないと断定することはできないが、脳に著しい器質的障害があるとはいえない。また止血のクリップが精神状態に影響する部位にかかっている点は注目しなければならないが、脳波検査においてもわれわれの鑑定時には異常なものは出ていないし、臨床心理検査や面接の結果においても、脳の器質性障害がある患者に認められる様々の兆候は被告人に顕著には認められない。被告人に脳器質性人格障害が存在しているならば、チングレクトミー手術前の本人の行動パターンと手術後の行動パターンとの間に大きな違いが存在していなければならない。被告人の犯罪的行動を中心にした行動のパターンをみると、もともと自分の要求を通す、あるいは自分なりの正義を主張するために暴力犯を繰り返し、その場合に財産犯も犯す傾向がある。手術後しばらくはその傾向がなかったが、再び前と同じような暴力的傾向をもった財産犯を反復するようになってきている。前と同じパターンを反復しているから、新たに脳に侵襲を加えられてそれまで存在しなかった脳器質的な人格障害が起き、その結果本件のような暴力的な犯行が行われるようになったものとはいえない。

被告人はチングレクトミーの結果、感受性の低下、美的感覚の減退を自覚したことはあったと思う。手術直後には、以前のように激怒することはなくなったという意味で感情的な感受性は鈍っていたかもしれない。しかし、感情的な反応性がまったくなくなったということはない。被告人は問診時などに怒りやあざけりといった否定的感情ははっきり表しており、この点はロボトミーを受けた患者が肯定的な感情も否定的な感情もなくなってしまっている状態とはまったく異なっている。ただ、攻撃性の抑制という面からいうと、手術後数年間は攻撃性を抑制する効果があったが、その効果が失われてしまったという意味で、手術は成功したとはいえない。脳は破壊されたら回復しないというが、脳の機能は全体的に働いているもので、脳の一部の破壊があっても、その付近の部分がその機能をある程度代償することがある。

当時、チングレクトミーなどの精神外科手術は、本人の反社会的、攻撃的行動を矯正して社会に適応できるようにするための手術で、本人が結果として適応できるようになったならば感謝してこれを受けようという推定の同意に基づいて手術が行われていた。被告人の場合、チングレクトミーは、結果的に、被告人の社会的能力の一時的低下をもたらし、被告人はそのことに感謝せず最後まで怨恨を抱くことになり、攻撃性も再発してきていることからみて、全体的には価値のない医療行為だったとは考えられる。

精神外科は、日本では行なわれなくなっているが、ヨーロッパの文献の動向では、今日精神外科の論争に全く決着がついて手術が医学的に全く認められないとはなっていない。私は精神外科に好意を持っていない。定位的脳手術などの場合、本人にプラスである場合もあり得ると思うが、薬物でそういう効果が得られるなら薬物によって得るべきである。しかし定位的脳手術やチングレクトミーなどの精神外科が、すべて当時の医療水準からみて許されなかった手術だとは考えていない。

フェノバルビタールもアモバルビタールも共にバルビツール酸剤という睡眠薬に属し、作用が非常によく似ている。睡眠作用を持ち、多少抑制を取り去る作用がある。ただ、フェノバルビタールに比べてアモバルビタールの方が即効的であり、致死量はフェノバルビタールの方が低い。てんかん、けいれんに対する抑制作用はフェノバルビタールの方が強いと思う。フェノバルビタールでは浮いた気分になりにくいが、アモバルビタールではちょっと浮いた気分になるだろう。本件犯行当時通算してフェノバルビタールを七〇錠飲んだという被告人の供述には、薬の種類や服用量について疑問があるが、鑑定書では一応被告人の供述どおりフェノバルビタールを服用したとの前提で記載している。アモバルビタールでも被告人のいうように真実七〇錠飲んだとすれば、大抵の通常人は深い睡眠に入る。眠りこむ前には、普通はろれつが回らない、手足の挙動がうまくとれない、非常に多弁になる、あるいはボーとしているような状態になることが多いと思う。連用の結果かなり耐性が向上していたにしても、寝込んでしまう可能性が高い。しかし特異体質を前提とした場合、酩酊状態にとどまるかもしれない。

被告人にフェノバルビタールを服用させて心理的な検査、問診をしてみて、バルビツール酸剤について確かに耐性が上昇していること、少なくともバルビツール酸剤によってもうろう状態、せん妄状態を起こしやすい体質ではないことがわかった。しかし、この検査結果は決定的な要因にはならない。興奮が強ければ、精神的な興奮と、眠り込む作用が相殺してしまって、意識の障害が起きていないということがあり得る。だから、そのときにどのくらいの意識状態であったかということは、行動のほうから逆算していくしかない。

本件の被告人の行動は、初めから一貫した目的をもって侵入し、ある段階で目的を若干変更しているが、その変更も状況に応じた変更であり、目的を変更したことについての説明も一貫していて、そこに矛盾したものはない。A医師の不在という新しい事態において、適切な判断ができたかという点については、A医師殺害計画を告知してしまっているので、後日これを実行するためには被害者をこの場で殺害するほかないと判断したという被告人の論理をわれわれは追体験できる。当の目的の人間を殺すのではなく、とばっちりで家人二人を殺すという非常に冷酷な行為を犯した点で、感受性の低下がみられ、ここに薬物の影響があるかもしれない。しかし、その被告人の論理の運び方は被告人なりに一貫しているので、事理を弁識する能力に著しい障害が存在していたと判断することはできない。被告人は、薬物を飲む前に犯行に対する確信を持っており、犯行を遂行していく過程において、ものを置き忘れたり、薬物を飲んでいたために忘れ易かったということはあるかもしれないが、自分が何の目的で何をなしつつあるかということは終始一貫自覚していて、非常に一貫してまとまった合目的的な行動をしており、その間のことについて多少の欠損があるにしてもよく記憶している。しかもその行った行動は事前から計画されていたことである。こういう場合、アルコールで例えて言えば酩酊状態であったとしても単純酩酊の範囲である。被告人は見当識を誤っておらず、意識障害といえるような状態はなかった。被告人の行動態様等からして、バルビツール酸系の薬物を本人の心身の状態に非常に重要な影響を及ぼす程度に摂取したということは考えられないと思う。

三  検討

以上に認定した被告人の生い立ちから本件犯行後の行動までの真実を前提として、被告人の本件犯行時における責任能力を検討する。

被告人の責任能力に関する前記のような鑑定・証言内容を相互に比較検討してみると、被告人を精神病質と診断しチングレクトミーを施したことの当否についての見解の相違が、被告人の犯行時の責任能力の評価に微妙な影響を与えているようにも見受けられる。しかし、いうまでもなく、犯行時の刑事責任能力の存否の判断は、あくまでも刑法的評価であって、その観点から検討すべきものであり、チングレクトミーを施したことの当否は、犯情に関わる一事情として考慮され得ることがあるにせよ、刑事責任能力の有無の判断に当たって影響させるべきものではない。

そこで検討するに、まず、被告人におけるチングレクトミーの後遺症については、これが一部とはいえ脳に外科的侵襲を加えるものであり、被告人の脳には異物であるクリップも残存していることからすれば、その手術の影響が本件犯行時にも残っていたであろうことは推測に難しくない。また、薬物の影響については、被告人の供述による限り、犯行当日の朝から犯行に至るまでの間に合計七〇錠のアモバルビタールを主成分とする睡眠薬及び相当量のカフェイン剤を服用していることになるのであって、この供述の信用性を否定する証拠もないので、これを前提にすれば、これら薬物の影響が犯行時に何らかの形で存在したであろうことも推測されるところである。しかしながら、チングレクトミーが被術者の行動の抑制力を減弱させるとした医学的研究はなく、また、薬物の効果は個人差が大きいものである上、本件はかつてチングレクトミーを施された被告人が薬物を服用して犯行に及んだという特殊な事案であり、このような場合の弁識能力、制御能力について定見は存しない。そこで、各鑑定人や証人の意見につきその基礎とした資料、判断の綿密さや判断過程などから慎重に検討し、その信頼できる専門的知見を参考にした上、被告人の施術前後の性格・行動、犯罪的傾向と本件犯行の関連性、犯行動機、犯行の計画性、犯行態様、犯行後の行動、犯行についての記憶の有無、程度などを総合的に考慮して、犯行当時の被告人の弁識能力、制御能力の程度を確定するほかはないのである。

1 まず、鑑定人及び証人の意見について以下に検討する。

逸見鑑定人は、被告人の犯行当時の意識障害に関し、「警察の調書を見ると、かなり細かく述べており、面接しても、要所要所は回答できたので、薬物の影響としてのもうろう状態が意外なほど少ないことが問題として残った。」としつつ、前記鑑定書を作成したのであり、その鑑定書の見解を、公判廷における供述で、より重いもうろう状態があったという見解に変更するに至ったのは、公判廷に出頭する直前に受け取った被告人からの手紙に所々記憶がないところがあった旨の記載があり、それが信用できたからである、としている。しかし、その手紙の存在及び内容は明らかにされていない。加えて、逸見鑑定人は、弁護人の誤導尋問に起因したのかもしれないが、公判廷において①被告人は月給袋だけ取って、中身は取らなかった、とか、②預金通帳は取っても印鑑は取っていない、という異常行動があり、これらは薬物による酩酊状態によるものである、としている。しかし、①については、被告人は、現実には、給料袋の現金約四〇万円を取っており、鑑定人の指摘する事実は誤りであるし、②印鑑を取らなかったことについては、被告人は、「判子の所在は分りませんでした。」(被告人の検察官に対する昭和五四年一〇月一四日付け供述調書―〈証拠番号略〉)、「(ハンドバックの中には)銀行通帳以外には入っていなかったと思います。」(第二五回公判)などと供述していることからして、被告人の右行動は、正常な判断に基づくものといえ、なんら異常行動とは認められないところである。なお、逸見鑑定人は、被告人の薬物濫用に関して、桜ヶ丘保養院において入院から施術後の経過観察に至るまで薬物濫用が看過されていたとするけれども、この見解は、同保養院保管の当時の書類中に、被告人の昭和三九年入院前の薬物濫用に言及したものがある(昭和四〇年九月二五日付け「精神障害者仮退院許可申請書」写し―〈証拠番号略〉の添付書類)こととも矛盾しているのである。結局、逸見鑑定人の意見は、被告人の供述する薬物の使用量に拘泥し、被告人に意識障害が出ていなかったはずはないとする疑問にとらわれ過ぎている嫌いがあるといわざるを得ない。

そして、逸見鑑定の見解をさらに進めようとする青木証言及び佐藤証言についても、同様の疑問が抱かれるのである。殊に青木証人が、「私は、金品を取るということは目的ではなかったと推測している。」という点は、被告人が、捜査段階から公判の最終段階まで、終始、A医師を殺害するまでの逃走・生活資金とする目的で現金を取った旨の供述をしていることと明らかに食い違っており、前提を誤っているといわざるを得ない。また、青木証人は、被告人の受けた手術がチングレクトミーに前大脳動脈結紮術を意図的に加えたものであるとし、被告人がその結果前頭葉を広範に破壊され、知的活動ができなくなっているなどとするけれども、これは被告人の知的能力について適切な客観的検査等の所見を得た上での立論ではなく、現に被告人はチングレクトミー後数年間は著述という知的活動で生計を立てていることとも矛盾するし、小田鑑定人の検査においても知能に著しい障害が認められないとされていることにも反しているところである。青木証人自身も、クリップを止血のためでなく目的的に使ったというのは推測で、正確ではないかもしれない旨述べていることからしても、曖昧な前提に基づく立論といわざるを得ず、精神外科の害を強調する余り被告人にも著しい障害があったはずだという観念にとらわれ過ぎているものと思われる。

次に、小田・荒崎鑑定人の意見については、被告人の犯行当時の行動や現在の状態像から遡って犯行当時の責任能力を判断しようとするものであり、その判断にあたっては、逸見鑑定及び青木証人、佐藤証人の意見をも前提にした上で、各種の心理検査や脳波検査等を行い、客観的な診断基準(DSM―Ⅲ―R)に基づいた診断を下しているのであって、その判断の基礎となった資料には客観性があるといえる。そして、小田鑑定人らの検査によれば、被告人は各種の心理検査の結果に著しい異常はなく、知能は検査当時においても常人以上の水準に保たれていること、また、バルビツール酸系薬物に対しての耐性は常人よりも強いことが認められる。

2 以上のような鑑定人、証人の知見をも参考にしながら、被告人の性格及び行動傾向等をみるに、前記のとおり認定した被告人の本件犯行前の行状に照らすと、被告人は、異常な程度に自信に乏しい反面狂信的傾向の強い性格で、強迫的傾向はチングレクトミーを受ける前後を通じて変わっておらず(逸見鑑定)、また、自己の要求を通すために粗暴犯を敢行するという行動傾向は、前記第二の一3、4、6などに認定したようにチングレクトミー手術前に目立ち、手術後数年間は影をひそめていたものの、その後さらに同種事犯を反復しており、犯罪的行動の傾向は施術後数年で旧に復していることが認められる。また、本件犯行の計画性や動機についてみると、前記認定のとおり、被告人は自己がチングレクトミーを受けたために結局生活基盤を失ったと考えて、精神外科手術に対する否定的評価を背景にした被害者意識からA医師を道連れにした無理心中を企て、長期間にわたりその実行方法を検討準備した上で本件殺人予備と住居侵入の犯行に及んだ後、A医師が帰宅しないという予想外の事態に直面して、当初目的とした同医師殺害を後日に延期して実行するために、本件強盗殺人を決意したものである。その医師殺害計画の執拗さはまさに異常なほどであるけれども、被告人の性格特性や犯罪的行動の傾向からみると、むしろ著しい自己正当化と攻撃性を示している点で従前の犯罪的行動と共通性を有し、その延長線上にあるものとして理解できる。強盗殺人の犯行動機についても、後日医師を殺害するためには、自己の名前や医師殺害計画を知った家人を生かしておくわけにはいかず、また、医師殺害までの逃走資金が必要だという被告人の考えは、当初の医師殺害計画を貫徹する上では現実的かつ合理的というべく、十分に了解が可能であって、チングレクトミー施行以前の行状等から推測される被告人の思考方法からすれば、右の判断過程に薬物による酩酊やチングレクトミーの後遺症の影響があったとは認め難いのである。

さらに犯行態様をみると、判示(罪となるべき事実)及び前記第二の一8に認定したとおり、殺人予備及び住居侵入は、事前に凶器や変装用の服装、携行品等を揃え、デパートの配送員を装って玄関から侵入を敢行するという冷静、巧妙かつ大胆なものであり、強盗殺人は、被害者と会話を続ける如く装いながら、突然切出しナイフで被害者の頸動脈を狙って切り裂き、さらに心臓をめがけて突き刺し、とどめを刺した上、金品を奪うという残虐なものであるが、それも被害者に恐怖心を起こさせず、騒がれないように即死させようという極めて合目的的な計算に基づくものである。また、犯行後の行動については、前記第二の一10で認定したとおり、①被告人は、家人殺害後、その犯人が流しの者による強盗殺人事件であると思わせるために室内を荒らすなどの偽装工作をしていること、②犯人が自分であることの証拠となる遺留品を残さないように、携行品を全て回収し、服を着替えるなどしていること、③逃走途中、さらに睡眠薬を二〇錠服用したにもかかわらず、その後警察官から職務質問を受けた際、所持品等について巧妙な弁解をしてその場を逃れようとしていること、そしてこれらはいずれも本件犯行前の被告人の計画には含まれていない行動であったことなどからすると、被告人は自己の行動とその結果生じる責任を十分認識した上で、追及を免れようと、状況に応じて合目的的な行動を選択していたことが明らかである。

加えて、犯行についての記憶の有無、程度については、前掲「チングレクトミーの対価」と題する書面を始めとする被告人の供述からすると、被告人は、本件犯行の主要な部分、とりわけ被害者二名を捕縛してからその殺害を決意し、切出しナイフで側頸部を切り裂きさらに心臓を突き刺してとどめを刺すまでの経過及びその際の自己の思考や感情についての記憶をかなり鮮明に保持しているばかりか、犯行当日の朝から犯行後逮捕に至るまでの犯行前後の自己の行動についても良好な記憶を保っていることが明らかである。もっとも、被告人はCを刺した回数や預金通帳のあった場所を正確には記憶しておらず、被害者方から逃走するにあたって新聞代の領収書等明らかに不必要かつ危険な携帯品となる品物を取る一方、台所の椅子の上に紙幣を置いたままにするなどの一見不合理とみえる行動にも出ており、これらは薬物の影響とも考えられるが、罪のない被害者二名を冷酷にも殺害するという重大行動に出たことによる心理的焦りがあって慌てていたと解しても不自然なものとはいえず、また、これらの点は、家人二名の殺害という本件犯行の中心部分と比較して、いわば些末なエピソードの類に過ぎず、これをもって直ちに被告人が是非善悪を判断するに支障が生ずるような状況にあったとみることはできない。なお、被告人は、公判廷において、自己の記憶が客観的な事実と食い違っており、薬剤の影響があったものと思われる出来事として、①A医師宅の門に貼ってあった犬のマークが記憶より少なかったこと、②表札が記憶では真新しい立派なものであったが、実際は粗末なものであったこと、③家屋内の間取りが正確に思い出せず、Bを捕縛していた部屋と玄関の位置関係を間違って記憶していること、④給料袋のあった場所が記憶では飾りダンスであったが、現場には三段の抽斗のついた小物入れしかなかったこと、⑤Bが首に掛けていたネックレスには全く気づかなかったことなどをあげ、これらを「幻覚」と呼んでいる。しかし、これらは、初めて侵入した他人の家屋内の様子や被害者の所持品等を正確に認識、記憶していなかったという記憶違いの類に過ぎず、幻覚といえるようなものではない。むしろ、被告人はその供述する睡眠薬の服用量の多さにもかかわらず、良好な記憶を保持し基本的に見当識を失ってはいなかったと認められるのであって、このように睡眠薬の影響が軽微なものにとどまったのは、被告人が長期間の薬物濫用による耐性あるいは特異な体質を有していたほか、同時に服用したカフェイン剤の覚醒作用が睡眠薬の麻酔作用をある程度打ち消すように作用したことや犯行の決意と実行に伴う意識高揚、興奮状態などの要因が重なったことによるものと推認される。

3  以上検討したところを総合すると、被告人は、長期間にわたる計画のもとに、本件犯行を了解可能な動機に基づいて実行したものであり、犯行前後を通じてその行動は基本的に外部の状況に対応した合目的性を有し、犯行についての記憶もかなり良好に保たれていたものである。そして、本件犯行は、被告人の基本的な性格、犯罪的行動の傾向に照らしてみても異質なものではない。加えて、そもそも被告人は、A医師殺害を実行するために自己の精神や行動力を賦活する目的で多量の薬物を服用し、その意図どおりに精神を高揚させたものである。これらの諸点を考え併せると、被告人にはチングレクトミーの副作用ないし後遺症があり、本件犯行前に多量の薬物を服用し、その影響下にあったものではあるが、しかし、これらは被告人の行動に本質的な影響を及ぼすほどのものではなく、被告人において、本件犯行当時、事理を弁識し、その弁識に従って行動する能力が著しく減弱していたとは認められない。弁護人の主張は採り得ない。

(累犯前科)

被告人は、昭和四八年七月一二日横浜地方裁判所において強盗致傷、銃砲刀剣類所持等取締法違反罪により懲役四年に処せられ、昭和五〇年一一月二〇日右刑の執行を受け終わったものであって、右事実は検察事務官作成の前科調書、府中刑務所総括指紋室係作成の指紋照会回答書によりこれを認める。

(法令の適用)

被告人の判示第一の所為は刑法二〇一条、一九九条に、判示第二の所為のうち住居侵入の点は、行為時においては平成三年法律第三一号による改正前の同法一三〇条前段、罰金等臨時措置法三条一項一号に、裁判時においては右改正後の刑法一三〇条前段に、B及びCに対する各強盗殺人の点はいずれも同法二四〇条後段に、判示第三の所為は、行為時においては平成三年法律第五二号による改正前の銃砲刀剣類所持等取締法三二条三号、二二条に、裁判時においては右改正後の同法三二条三号、二二条にそれぞれ該当するところ、右住居侵入及び銃砲刀剣類所持等取締法違反については犯罪後の法令により刑の変更があったときにあたるから刑法六条、一〇条によりいずれも軽い行為時法の刑によることとし、判示第二の住居侵入とB及びCに対する各強盗殺人との間にはそれぞれ手段結果の関係があるので、同法五四条一項後段、一〇条により結局以上を一罪として刑及び犯情の最も重いCに対する強盗殺人罪の刑で処断することとし、所定刑中判示第二の罪について無期懲役刑を、判示第三の罪については懲役刑をそれぞれ選択し、被告人には前記の前科があるので、同法五六条一項、五七条により判示第一及び第三の各罪の刑にそれぞれ再犯の加重をし、以上は同法四五条前段の併合罪であるから同法四六条二項本文により他の刑を科さないこととして被告人を無期懲役に処し、押収してある切出しナイフ一丁(〈押収番号略〉)、軍手一双(〈押収番号略〉)、モデルガン一丁(〈押収番号略〉)、手錠六個(玩具、〈押収番号略〉)、ガムテープ一巻(〈押収番号略〉)、円型帽子入れボール箱一個(〈押収番号略〉)、千枚通し一本(〈押収番号略〉)、白色手袋片方(〈押収番号略〉)、茶色手袋一双(〈押収番号略〉)及び手袋一双(〈押収番号略〉)は判示第一の犯行を組成した物で被告人以外の者に属しないから、同法一九条一項一号、二項本文を適用してこれらを没収し、押収してある預金通帳一通(〈押収番号略〉)は判示第二の罪の賍物で被害者に還付すべき理由が明らかであるから、刑事訴訟法三四七条一項により被害者Bの相続人に還付することとし、訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項ただし書を適用して被告人に負担させないこととする。

(量刑の理由)

本件は、精神外科手術を受けた被告人が、不本意な手術であったとして主治医でその手術にも関与した医師を恨み、自殺の道連れに殺害しようと企て、切出しナイフ等の凶器を準備、携帯して同医師方へ押し入り、その妻及び義母を捕縛した上医師の帰宅を待ち受けたが、医師が帰宅しなかったため、医師殺害を後日に延期することにして、自己の正体を話しておいた右家人二名を口封じのため殺害し、逃走して再度医師を殺害するまでの生活資金として現金等を奪ったという殺人予備並びに死者二名の強盗殺人等の事件である。

まず、医師殺害計画の動機からみるに、被告人は、チングレクトミーを受けて退院した後、結局は前科を重ねた末に、実弟の仲介で、フィリピンの会社に技術者兼通訳人として勤務することになり、自己の得意分野である機械と英語の知識を活用できる絶好の機会であると再起更生を期して渡航したが、勤務してみると予想外に自分の英語力が実務に通用しないことを思い知らされ、勉強しなおす気力も失い、飲酒に耽って睡眠薬を濫用するなど乱脈な生活を送り、現地人に暴力を振るったり、さらには反政府運動者を支持したとして現地の警察に身柄を拘束されるなどして、失意のうちに帰国することになり、その途中、最後の生活基盤も失ったと考えて絶望したあげく自殺することにし、自分が挫折したのはチングレクトミーをされたためであり、かつて自分は無学歴でも通訳になるほどの知能があり、その後粗暴犯などの前科を重ねても、立ち直って著述業で生計を立てるようになっており、慎重な判断をすれば手術が不要と分かったはずなのに、強制的に入院させられ、主治医となった医師が真剣に観察せずに、自分にチングレクトミーを施行し、そのため自分は無気力となるなど人格崩壊をきたして人生を終えることになったのであり、自分が死ぬのなら、その手術をした医師の人生も終らせなければならないと考えて、医師殺害を決意したものである。

そもそも被告人がチングレクトミーを受けるに至ったのは、被告人が強迫神経症で、自信の乏しい反面、狂信的な傾向が強く、その程度が異常であり、睡眠薬を濫用するなどして暴力事犯を繰り返したことから、措置入院させられ、精神療法等を施されても、芳しい効果が得られなかったためであって、いわば最後の手段としてチングレクトミーが施行されたのである。被告人は、退院後一時的に爆発性、攻撃性を消褪させていたものの、結局その性格偏倚と薬物嗜癖を矯正できないまま社会生活への不適応をきたし、手術の後遺症にも悩んだあげく自殺を決意し、これも手術の結果であるとして医師を恨み、精神外科に対する否定的評価を背景とした被害者意識から、道連れとして主治医の殺害を計画するに至ったのであるが、右医師も、当時としては誠意を持って被告人の治療に当たり、その立場から最良の治療方法と考えて手術をしたのである。被告人の動機は他罰的な怨恨というほかない。

しかも、本件で最も重大な強盗殺人事件の被害者は、その手術を担当した医師でもなく、全く関係のない家人二名である。被告人は、家人の女性二名の両手両足に手錠をかけ、ガムテープ等で両目、口を塞ぎ、口に猿ぐつわをするなどして全く無抵抗の状態にした上、後日医師殺害を実行すべく、自己の正体を知った彼女らの生命を情け容赦なく奪ったばかりか、逃走・生活資金として現金を奪い取ったのであって、その殺害の態様たるや、捕縛して無抵抗の女性二名の側頸部を鋭利な切出しナイフで切り裂き、さらに心臓部を数回突き刺してとどめをさすという残忍なものであり、血の海となった現場に残された大量の血痕、遺体の無残な傷跡とその無念の表情等はまことに凄惨な犯行現場を現出しているのである。このような犯行の残忍さには、被告人が大量の睡眠薬等を服用していたこともある程度影響を及ぼしていたと認められるが、そもそも被告人は医師殺害を敢行するに当たって、自らの抑制を解除し、犯罪実行の行動力を賦活すべく薬物を服用していたのであるから、薬物の影響があったからといって被告人に対する非難が軽減されるものではない。

他方、被害者両名は、必ずしも恵まれたとはいえない生活を送ってきたところ、Bが精神科医師と結婚してからは、Bは家庭の主婦として平穏に暮らし、Cはその母として娘夫婦との余生を送っていたのであって、かつての主治医の家族という以外に被告人と何の関係もなく、ましてや被告人から危害を加えられるべき何らのいわれもなかったのである。しかるに、被害者両名は、安らぎの場である自宅で、しかも突然被告人に襲われてナイフを突きつけられ、手錠をかけられて自由を奪われた上に両目と口を塞がれた状態で、被告人の計画を告げられ、一家の柱と頼む医師を惨殺せんと待ち受ける被告人と共に長時間にわたり不安と恐怖の時を過ごした挙げ句、その主要な理由は被告人の氏名やその計画をその場で聞かされたというだけで、一瞬にしてかけがえのない生命を奪われたのであり、その心情と無念さは察するに余りあるものである。また、深夜帰宅して被害者両名の変わり果てた姿を目の当たりにした医師の衝撃と悲嘆、さらにその加害者が自己のかつての患者であると知った痛憤の情は到底筆舌に尽くし難いものであって、同医師が遺族として事件から一〇年以上を経過した現在もなお被告人を極刑に処することを希望しているのも無理からず理解できるところである。

医師に対する殺人予備についてみると、幸いにも強盗殺人事件後の警察官の職務質問をきっかけに被告人が逮捕されたため、その企図が阻止されたものの、この僥倖がなければ被告人が再度医師殺害を実行しようとしたことは明らかであり、その犯情も極めて悪質というべきである。

さらに、本件は、被害者二名の強盗殺人等という重大なものであるだけでなく、精神外科手術を受けた元患者が精神科医に対する恨みから惹き起こした事件として、発生当時社会の耳目を集めたものであり、社会一般、とりわけ精神医療関係者に与えた衝撃も甚大である上、精神医療の患者への社会的偏見を助長するおそれもないとはいえない。本件の社会的影響はまことに重大である。

しかも被告人は、昭和三二年に暴行、恐喝罪により懲役一年六月(三年間執行猶予)に処せられて以来、昭和四八年までに強盗致傷を含む前科四犯を有し、そのほかにも暴力を含む反社会的な問題行動を反復して敢行しているにもかかわらず、これらの犯罪行為に出た理由を縷々弁解するなど、顕著な自己正当化と他罰的傾向から累次の受刑も矯正の効果を持ち得なかったものである。このような被告人の言動、性格、生活歴や年齢等からみると、今後の感化矯正によりその反社会性を除去することは極めて困難といわざるを得ない。

加えて、チングレクトミーを受けたことに対する被告人の不満と医師殺害を果たせなかったことに対する無念の感情は極めて根強く、起訴後検察官に差し出した手紙(〈書証番号略〉)では、「万が一、裁判官が、私にいかなる事情があるにしろ、二人の無抵抗の女性を殺害して金を奪ったという事実を誤認し、私に死刑の代わりに、無期懲役を科したとしたら、私は万難を排して脱獄し、Aにより自活能力を欠いているため、強盗等にて生計を立て、必ずAを殺します。私はそれは…私を廃人化せしめた犯罪に対する社会正義と信じます。私は八たび生れ変わってAを殺します。」などと明記し、その後一〇年余りを経過した最終の被告人質問(第二八回)においてさえも、「脱獄は不可能であり、現在人を一人殺害するだけの気力も体力もない。しかし、自分自身の手ではなく、誰か殺してくれる人がいれば、頼む。」旨述べて、医師に対する憎悪と殺害の意思を相変わらず持ち続けていることを明らかにしている。

以上に指摘した犯情に鑑みると、被告人の刑事責任は極めて重大であり、極刑も十分考慮に値するところである。

しかしながら、死刑はいうまでもなく究極の刑罰であって、その選択にはもとより慎重を期すべきであることに鑑み、さらに情状について考慮検討しなくてはならない。

まず、最も重大な強盗殺人の犯行をみるに、当初、被告人は、医師を殺害して自殺するといういわゆる無理心中を計画し、家人二名に対してはその計画実行の障害とならぬよう捕縛しておくほかには危害を加える意図を有しておらず、財物奪取の意思も有していなかったものであって、本件強盗殺人は、医師が帰宅しないという予想外の事態の変化に直面した被告人が、とっさに選んだ突発的な犯行であり、強盗殺人罪に該当するとはいえ、当初から財物奪取の目的で住居に侵入して犯した強盗殺人事件とは趣を異にすることに注目しなければならない。被告人は本件各犯行に至るまで執拗に準備を重ねてきたものではあるが、その計画性はもっぱら医師殺害に向けられており、家人二名に対する強盗殺人までも計画的な犯行と評価することはできないというべきである。

また、被告人が医師殺害を周到に計画したのみならずその実現のため本件各犯行に及び、今なお医師に対する根深い憎悪と殺意を保っていることは、被告人の危険性として看過できないところではあるが、被告人を終生獄中に隔離するならば、被告人が再び医師殺害を実行する客観的、現実的な危険性はもはやほとんどないと認められるところである。

さらに、被告人は、貧しい家庭に育ち、ほとんど独学で英語を修得して得た米軍関係の通訳の職も米軍機関の廃止により失った後、職を転々とした末に、スポーツ関係の著述で生計を立て、収入も上向いて親への援助も可能になってきた時期に、暴力的傾向が顕著となったため措置入院となり、不本意にもチングレクトミーを施されるに至ったこと、チングレクトミーは、被告人への施術当時においては、最終的な治療方法として世界的に承認され、少なからぬ症例について行われていたものであるけれども、当時から賛否両論がなかったわけではなく、その後に精神外科手術そのものの当否が問題とされるに至っていることや、治療薬の発展もあって、現時点では我が国においては施行されないようになっていること、被告人に対する施術当時は、精神外科手術に当って患者本人の同意を得ることに重きが置かれてはいなかったが、現在では治療行為一般に患者本人の同意が重視されるようになっていること、また、被告人に対する手術については、手術を受けたにもかかわらず、数年を経て被告人の爆発性、攻撃性が復活しており、結果的にみて本来求められていた手術の効果は十分得られなかったといわざるを得ず、他方で被告人は手術後のてんかん発作、性欲減退、美的情動の喪失感などを訴えており、これは手術の副作用ないし後遺症とみられ、現時点においてみれば、結局被告人に対する手術が医療行為としてどれだけの価値があったか疑問も残ること等の諸事情は、前述のように被告人の施術に至る経緯が当時としてはやむを得ないものであったとはいえ、現在被告人に極刑を科すべきか否かを決する上では、なお斟酌に値するものといわねばならない。

これらの諸事情や、被告人の年齢、さらに近年における死刑の適用状況をも考慮すると、被告人に対し直ちに極刑を科するには、未だ一抹の躊躇を感じざるを得ないのである。そこで、被告人に対しては、今後とも医師殺害の計画を決して実現させぬよう、被告人の死に至るまで仮出獄等を赦すことなく、終生の間、社会から隔離した上、自己の非を悟るべく、また被害者の冥福を祈るべく、その機会を与え、無期懲役に処するのが相当であると判断した次第である。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官池田真一 裁判官林潔 裁判官瀬川卓男)

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